©2009 関 健一         索引に戻る

東京大学
「雁」の次代設定は明治13年としてある。明治13年は森鴎外19才、東京大学醫学部本科に入って4年目になる。主人公の岡田は此の年東京大学を卒業しようとしている。

 

 其頃僕は東京大學の鐵門の眞向かひにあった、上條と云う下宿屋、此話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。

 東京大学鉄門の位置は当時とは変わっているはずだが、昔も今も鉄門が医学部の門であるという事は変わらない。現在も医学部のクラブ等は鉄門を名乗るものが多い。
 東京帝国大学という名に変わったのは明治30年「雁」は明治13年の話である。

 

 上條に下宿しているものは大抵醫科大学の學生ばかりで、其他は大學の附属病院に通ふ患者なんぞであった。

 学部という名が導入されたのは大正8年、それまでは醫科大学というふうに各分科大学があった。
 実際に鴎外が学生時代下宿していた上條のあった場所は今は東京大学の構内になっている、写真はそのあたりに現在立つ医学部南研究棟(通称赤レンガ)で大正14年の建築である。

 

 岡田の日々の散歩は大抵道筋が極まっいゐた。(中略)或る時は大學の中を抜けて赤門に出る。鐵門は早く鎖されるので....

 物語の明治13年頃の建物で現存するものは数少ない。11代将軍家斉の娘溶姫が加賀藩に嫁入りした時(文政10年 1827)に建てられたもので、大名が三位以上の時のみ奥方の為に丹塗りの門をたてる事が出来たのである。これを御守殿門といった。

 

貳拾參

 ドイツのProfessor W.が、往復旅費四千マルクと、月給二百マルクを給して岡田を雇ったからである。
(中略)ドイツ語を話す學生の中で、漢文を樂に讀むものと云ふ注文を受けて、Baelz教授が岡田を紹介した。

 左が、東大御殿下グラウンドの南に立つベルツ教授の胸像である。

 ベルツ博士は明治9年から27年間東京大学で医学を教えその後宮廷侍医となった。医学教育に後見したばかりでなく、日本女性を妻とし日本および日本文化の良き理解者紹介者でもあった。

 

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