©2004 関 健一

  小説の主舞台になるのはその頃の本郷区、現在の文京区本郷の東京帝国大学だが、当時学部という呼び方は無く、法科大学、医科大学、工科大学、文科大学、理科大学と称し、おのおの大正8年(1919)に法学部、医学部、工学部、文学部、理学部と改称された。なお農科大学は当時、目黒区にある現在の東大駒場キャンパスに有り、後年現在の文京区弥生にあった第一高等学校と校地を交換した。 漱石は明治36年(1903)4月から明治40年(1907)3月まで東京帝国大学文科大学英文科の講師ならびに第一高等学校講師を兼任して勤めていた。三四郎は辞職の翌年の明治41年(1908)9月から12月まで朝日新聞上連載される。今、三四郎を読みながら本郷を歩くと、漱石はかって知った帝大校内を正確に描写 しているように感じられる。
 小説の時代は、2章に”ベルツの銅像の前から”とあることから、この像が建てられたのが明治40年(1907)年4月なので、書かれたのと同時代と思ってよいだろう。東大本郷キャンパスは戦災を受けなかったが、当時の建物で残っているものは、文政11年(1828)に建てられた赤門と、今は小石川植物園に移築された明治9年(1876)の東京医学校本館しかないのは寂しい限りだ。
 初冬の一日、美喜さんと三四郎の跡を尋ねた。あいにく小雨が時折降る天気だったが、遅い黄葉が残っていた。

 

 
 

これは”椿わびすけ別館”内”カメラさんぽ”の中にある”三四郎を歩く”のミラーページです
どうぞリンクしてみて下さい

 

    文学散歩index