©2004 関 健一

       三四郎 2章より
 二人はベルツの銅像の前から枳穀寺(からたちでら)の横を電車の通りに出た。

          麟祥院
 現在の 東大龍岡門を出て春日通をほんの少し左に行くと、少し奥まって 麟祥院がある。当時垣根がからたちだったので枳穀寺(からたちでら)といったそうだ

         三四郎 4章より
 君 、九段の燈明台を知っているだろう。」とまた燈明台が出た。「あれは古いもので、江戸名所図絵に出ている」
 「先生冗談言っちゃいけません。なんぼ 九段の燈明台が古いたって、江戸名所図絵に出ちゃたいへんだ」
 広田先生は笑い出した。実は東京名所という錦絵の間違いだということがわかった。

         九段燈明台
 
明治4年(1871)九段坂の上、東京招魂社(靖国神社と明治32年改名)の鳥居の前にこの燈明台は建てられた。2年前に創建された招魂社 に祀られた霊の為とも、品川沖の漁船の 安全の為ともいう。遠く房総からもその灯が望まれたそうだ。今そこに立っても海も見えないのだが。昭和5年(1930)坂下から見て右側から左側に移築された。
  子供の頃からよく行ったけれど、その頃はこんなに金色に輝いていなかったな。

        三四郎 9章より
  ただ原口さんが、しきりに九段の上の銅像の悪口を言っていた。あんな銅像をむやみに立てられては、東京市民が迷惑する。それより、美しい芸者の銅像でもこしらえるほうが気が利いているという説であった。

        大村益次郎銅像
 九段坂を上がり靖国神社の大鳥居にさしかかると向こうに人が立っているように見える。さらに進むとそれは銅像であることに気づく。それが明治軍制のの創始者といわれる大村益次郎(文政7年〜明治2年 1824〜69)の銅像である 。靖国神社の場所を定めたのも彼であった。明治26年(1893)最初期の西洋式の銅像として立てられた。

 

       三四郎 12章より
 「美禰子 さんは会堂(チャーチ)
 美禰子の会堂に行くことは、はじめて聞いた。どこの会堂か教えてもらって、三四郎はよし子に別れた。横町を三つほど曲がると、すぐ前に出た。三四郎はまったく耶蘇教に縁のない男である。会堂の中はのぞいて見たこともない。

     ニコライ堂と本郷中央会堂
 横町の先だから、ニコライ堂ではないだろうが、明治24年(1891)に完成した日本正教会のこの会堂は東京大学にも近い。
 一説によると、龍岡門を出て春日通を麟祥院と反対に行ったすぐの左側にある本郷中央会堂がモデルだという。大震災で明治23年(1890)の建物は焼け、現在の会堂は昭和4年(1929)のものである

ニコライ堂

本郷中央会堂

    吾輩は猫である 1章より
 主人は鼻の下の黒い毛を撚りながら吾輩の顔を暫く眺めて居ったが、やがてそんなら内に置いてやれといったまま奥に這入って仕舞った。

       千駄木の漱石旧宅跡
 千駄木の日本医科大学の横に漱石旧居の碑と猫がいる。ここはイギリスより帰京した直後の明治36〜39年(1903〜6)の間ここに住み”吾輩は猫である””坊ちゃん”などを執筆した。”三四郎”を書いたのは牛込区早稲田南町である。

 

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