©2004 関 健一

        三四郎 2章より
...三四郎は 池のそばに来てしゃがんだ。
 非常に静かである。電車の音もしない。

 三四郎がじっとして池の面を見つめていると、大きな木が幾本となく水の底に映って、そのまた底に青い空が見える

        三四郎池
 東大本郷キャンパスのほぼ中央にある三四郎池は、加賀藩主前田利常が寛永15年(1638)にその上屋敷の中に築造を初め、前田綱紀の時代に今の形になり育徳園心字池と名付けられた。
 近年水不足に悩まされていたが、この時は増水していて、踏み石をわたれないところもあった。

 

       三四郎 2章より
 ふと目を上げると、左手の丘の上に女が二人立っている。女のすぐ下が池で 、向こう側が高い崖の木立で、その後ろが...

 ...ただ額に少し皺を寄せて、向こう岸からおいかぶさりそうに、高く池の面に枝を伸ばした古木の奥をながめていた。

       三四郎池と御殿山
 美禰子 と初めて出会うところがこの章である。彼女は病院の方から来て御殿山の上に出たことになっているので、三四郎のいたのはカメラよりもっと右かもしれないが、皺まで見えてということだから池を回った向こう側とは考えにくい。左側の御殿山も、山上に近年山上会館できたせいか昔より少し低い感じもする。

       三四郎 6章より
 きょうは昼から大学の陸上運動会を見に行く気である。

 運動場は長方形の芝生である。秋が深いので芝の色はだいぶさめている。競技を見るところは西側にある。後に大きな築山をいっぱいに控えて、前は運動場の柵で仕切られた中へ、みんなを追い込むしかけになっている。

     御殿山と御殿下グラウンド
 現在は人工芝のグラウンドになっている御殿下グラウンドが芝生の運動場だったのだろう。後ろの築山は御殿山にあたり、そこには現在山上会館が建っている。その前が競技を見るところだったのだろう。今でも低い柵が運動場と御殿山を区切っている。

       三四郎 3章より
 赤門を入って、二人で池の周囲を散歩した。その時ポンチ絵の男は、死んだ小泉八雲先生は教員控室へはいるのがきらいで講義がすむといつでもこの周囲をぐるぐる回って歩いたのだんだと....

        赤門
 東大の代名詞ともなっている赤門は加賀藩十三代前田斉泰が文政10年(1827)に十一代将軍家斉の娘溶姫を迎え入れたときに建造された門。将軍の息女が三位以上の大名に嫁した時、彼女を御守殿とよび、奥向きの門を朱で塗り黒の金具を使った。正式には御守殿門とよばれる。左右に両番所という唐破風造りの番所がつく。

        三四郎 2章より
 二人はベルツの銅像の前から枳穀寺(からたちでら)の横を電車の通りに出た。銅像の前で、この銅像はどうですかと聞かれて三四郎はまた弱った。

        ベルツの銅像
 医学部図書館の北東下に、明治40年(1907)に建てられたベルツ、スクリバの2人の胸像が並んでいる。現在の位置は当時より60m北に移動している。ベルツはドイツの人 、明治9年(1876)から明治35年(1902)まで 東京医学校(現東大医学部)の内科専任教師として教育と医療に携わった。

        三四郎 3章より
...念のため理科大学の野々宮さんかと聞き直すと、うんという 答えを得た。

 銀杏が向こうの方で尽きるあたりから、だらだら坂に下がって、正門のきわに立った三四郎から見ると、坂の向こうにある理科大学は二階の一部しか出ていない。

       理学部化学本館
 当時の各大学(現在なら各学部)の位置は当時とあまり変わらないようだ。現在安田講堂のあるところが坂になっていて、それを降りたところ理科大学(現在の理学部)はあったようだ。今残る最古の建物が 漱石の亡くなった大正5年(1916) に建てられた赤煉瓦2階建ての化学教室である。

        三四郎 3章より
 野々宮君の妹と、妹の病気と、大学の病院を一緒にまとめて、それに池の周囲であった女を加えて、それを一どきにかき回して、驚いている。

       旧東京医学校本館
 昭和44年(1969)に小石川植物園に移築された 旧東京医学校本館(現東京大学医学部)は明治9年(1876)に建てられた。現在は国の重要文化財指定を受け、東京大学総合研究博物館小石川分館として使われている。時計台を持つ擬洋風の木造建築である。

        三四郎 2章より
...午後4時頃、高等学校の横を通って弥生町の門から入った。

         弥生門
 現在の弥生門がこの門だろうか。この門を出て左に2.3分歩くと当時の第一高等学校、現在は農学部のキャンパスに入れる。今は通称ドーバー海峡といわれる言問通りをまたぐ陸橋が2つのキャンパスをつないでいる。

        三四郎 2章より
 西の方に傾いた日が斜めに広い坂を照らして、坂の上の両側にある工科大学の建築のガラス窓が燃えるように輝いている。

        三四郎 3章より
 左手のずっと奥にある工科大学は封建時代の西洋のお城から割り出したように見えた。

         工学部2号館
 工科大学は現在の工学部、その2号館は坂の途中にあり大正13年(1924)に建てられた。現在1階には、これも懐かしい日比谷公園の松本楼がレストランを営業している。

       三四郎 3章より
  銀杏の並木がこちら側で尽きる右手には法文科大学がある。左手には少しさがって博物の教室がある。

     銀杏並木と法文2号館の付柱
 今年は過剰な剪定のため銀杏並木は貧弱で残念。現在の法文2号館は昭和4年(1929)たてられた。漱石の時代も同じあたりに法文一緒の教室があったようだ。

 

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