2003年5月X日 映画”めぐりあう時間たち ”を見ました

 ニコル・キッドマンが作家ヴァージニア・ウルフを、彼女の小説”ダロウェイ夫人”を読む1949年の主婦をジュリアン・ムーアが、ダロウェイ夫人とあだ名される2001年のニューヨークの編集者をメリル・ストリープが演じ、この3つの時間を行き来しながら映像が進んでゆく。小説”ダロウェイ夫人”が花を買いに行く朝で始まる1日の物語であるように、映画の中の1949年も2001年も花を買う朝から始まる1日の物語で、なかなか技巧的な構成だが整理が良く、スティーブン・ダルトリー監督の明快な進行が気持ちが良かった。原題は"The hours"。

 1997年制作のマーレーン・ゴレス監督の映画”ダロウェイ夫人”は私の好きなヴァネッサ・レッドグレーブ主演だったが、主人公が今の生を肯定して歓喜に包まれるシーンに説得力が無く感心しできなかったが、小説を読んでいない私にとって、それを思い出しながら今回の映画を見ることで理解にとても役立った。メリル・ストリープ演じる2001年のダロウェイ夫人は小説の彼女ように幸福には至らない。映画の3つの時間を通 して、生に対する渇望と、襲ってくる絶望感に対する恐怖が描かれ、少しずつ悲劇的な結末 に向かってゆくのが予感され救いの少ない辛い映画になっている。私もデプレッションの海の中にゆっくりと溺れていった帰らぬ 友人を思いだしてしまう。

 1949年の主婦がベットの上で、波に呑まれる幻想を描いた所など、ウルフの水に対する幻想を良く引用しているし、小説”ダロウェイ夫人”の夫人の若い娘がNYにも登場し、映画唯一の救いのシーンを演じているのもよかったが、ここはマイケル・カニンガムの原作にあるのだろうか。集英社から出ている翻訳を読んだことのある人に小説の方のレビューを聞いてみたい。暗い映画好きの私にとっては退屈しない2時間だったが、理に落ちすぎ、少しわかり易すぎるところがちょっと不満というところか。

 作家ヴァージニア・ウルフが気になって、神谷美恵子著作集から”ヴァージニア・ウルフ研究”を読み始めたらこれが面 白くやめられない、著者のウルフへの傾倒が強い力で心に伝わってくる。もとより神谷美恵子の筆力は大好きだったがこれは又別 格のような気がする。それにもかかわらず、評価や描写が全くヴァージニア・ウルフに対して甘くない。彼女は自分や自分の家族に対して書く時も溢れるような愛がありながら、冷徹にに現実を捉えているようにみえる。それは須賀敦子にありながら向田邦子にない資質だろうか。脱線したけれど、ウルフの躁鬱証の病歴、むしろ生活誌と言ったほうがいいだろうが、を読むと映画ではあの人格的な複雑さは描ききれないのだろうと思ってしまう。だからこそ、それを3人の人間に分散して描こうとしたのだろうが。

 ニコル・キッドマンは駅で迎えに来た夫と交わす笑顔が、常にしている眼を寄せたー眉を寄せたと書いた方がいいのだろうが眼を寄せたように見えるー表情と全く違う一瞬の恍惚を表していて良いシーンだった。ジュリアン・ムーアは老けてからのメーキャップ演技にはちょっと疑問が、メリル・ストリープは好きなので良かったことにしよう。彼女の庇護する詩人はエイズのメーキャップと演技に実感があったし、1949年の子役の少年は、不安感の演出、あるいは演技がとても腑に落ちた。ヴァージニア・ウルフの姉は、神谷美恵子の描くイメージとは違うが原作のイメージを踏襲しているのだろうか。

 平成元年に買ってツンドクだった、ヴァージニア・ウルフの後期の小説”波”を読み始めた。読みやすくはないが。

2003年5月X+1日   ウーズ川

 神谷美恵子の”ヴァージニア・ウルフ研究”を読了。著者が切望した大部のV.ウルフの全日記刊行前に、書かなければ時間がないと言う無念さがつたわってきて切ない。四半世紀前の著書だから、現在の精神医学の知見からはあるいは違う見解もあるかもしれないが、人間を観察し分析し評価する能力は完璧にあることを感じながら読んだ。

 最後の章”V.ウルフの夫君を訪ねて”では、夫妻が長く住んでいた邸宅を尋ねた時、V.ウルフが入水したその庭を流れるウーズ川を見て、幅1m半程と記述してある。映画では10mもあったように見えた川たが、そのとたんゴールスワージーの小説”林檎の木”を思い出した。ヒロインが身を投げた池を探し当てた主人公が、その池のあまりの小ささに衝撃を受けるという情景である。そこがヒロインの無念さをもっとも感じさせてくれたシーンだったので。

 V.ウルフの自伝作者である甥のベルは、彼女の階級を中流の上層の下部と書いている。日本に住む私にとってはこれは何のこっちゃという感じ、山城浄瑠璃寺の阿弥陀如来はすべての衆生を救うために、上品上生から下品下生まで九体そろっているが、これでは足りないじゃないか。これだからさらに細かいカーストのあるインドを長く支配できたのかと思ってしまう。今読んでいる19世紀末のロシア人神秘思想家、旅行家のヘレナ・P・ブラヴァツキーの紀行”インド幻想紀行”で攻撃されているイギリス人の鼻持ちならぬ 差別意識を連想してしまう。

©Seki Kenichi      index BBSにメッセージを