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Vol.1

 津守(つのかみ)は現在も四谷荒木町と四谷三栄町の町境の津守坂として地名に残っている。当時は外苑東通りがなく四谷区から牛込区方面に行く主要道路だったと考えられる。

 士官学校は現在の防衛庁でその前を真直に堀端に出るということは靖国通りを市谷見附方面に歩いたということだろう。現在は無機質な壁が続く。

 砂土原(さどはら)町で牛込台地の方へ上がるのは彼が住んでいたと思われる牛込北町袋町方面に行く近道で、私も市谷駅から北町の自宅に帰るときは必ず通る道だ。

 牛込見附は現在のJR飯田橋駅西口のあたり、江戸時代の見附の形をよく残している。高層ビルが無かった頃は小石川は神田川を隔てた向こうにすぐ見えたはずだ。現在の外堀通りには昭和42年(1967)まで外濠線の後継である都電3番系統が走っていてよく乗った。

 それから 14

 津守を下りた時、日は暮れ掛かった。士官学校の前を真直に濠端へ出て、二三町来ると砂土原町へ曲がるべき所を、代助はわざと電車路に付いて歩いた。彼は例の如くに宅へ帰って、一夜を安閑と、書斎の中で暮すに堪えなかったのである。濠を隔てて高い土手の松が、眼のつづく限り黒く並んでいる底の方を、電車がしきりに通った。代助は軽い箱が、軌道の上を、苦もなく滑って行っては、又滑って帰る迅速な手際に、軽快の感じを得た。その代り自分と同じ路を容赦なく往来する外濠線の車を、常よりは騒々しく悪んだ。牛込見附まで来た時、遠くの小石川の森に数点の灯影を認めた。代助は夕飯を食う考もなく、三千代のいる方角へ向いて歩いて行った。

 

 

津守坂

 

士官学校前

 

砂土原町

 

牛込見附

 

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