©2019 関 健一  model : Tomomi

Vol.2

 60年前、私の子供の頃も神楽坂は2階屋の続く商店街だった。料亭はまだ30数軒あり、夜になると黒塗りのハイヤーがたくさん待っていたが、昭和初期にかけて山手一の盛繁華街だったという雰囲気はすでになかった 。

 

 それから 8
 神楽坂へかかると、寂りとした路が左右の二階家に挟まれて、細長く前を塞いでいた。中途まで上って来たら、それが急に鳴り出した。代助は風が家の棟に当る事と思って、立ち留まって暗い軒を見上げながら、屋根から空をぐるりと見廻すうちに、忽ち一種の恐怖に襲われた。

神楽坂

 

 藁店は神楽坂を登りきり左の毘沙門天を通り過ぎた先に左に折れる坂道のあたりをさす地名。現在地蔵坂と言われることがあるが牛込にずっと住んだいた祖母も母も地蔵坂などと言ったことはついぞなく藁店と言っていた。
 このあたりではアンスティチュ・フランセ日本 (旧称東京日仏学院)横の逢坂に次ぐ勾配のきつさで、小学生の頃ギヤチェンジできない自転車では登りきれない坂だった。三千代がここを駆け上がれば息が苦しくなるのは当然のことだろう。
 藁店をあがったところは牛込袋町、その先は牛込北町、息が苦しいまま代助の家に着いたのならその家は袋町が第一候補になるだろう。砂土原町からくるにも矛盾がない。

 それから 10
 三千代の頬に漸やく色が出て来た。〜中略〜 御息み中だったので、又通りまで行って買物を済まして帰り掛けに寄る事にした。ところが天気模様が悪くなって、藁店を上がり掛けるとぽつぽつ降り出した。傘を持って来なかったので、濡れまいと思って、つい急ぎ過ぎたものだから、すぐ身体に障って、息が苦しくなって困った。

 


 

藁店(わらだな)

 

 江戸川の四つの橋は後述するように五軒町から江戸川に出て三千代の家のある伝通院方面に引き寄せられているすれば 石切橋 前田橋(現在の西江戸川橋)小桜橋 白鳥橋だと考えられる。

 揚場町は飯田濠の荷揚げの場所であった。祖母はここで船に乗って神田川 日本橋川を通り日本銀行の横で船を降り三越百貨店に行ったそうだ。今はビル街で全くその面影はない。

 大曲から江戸川(現在の神田川 江戸時代飯田橋までは江戸川とよばれていた、私の中学時代もこの川は江戸川だった)沿いに下流に歩き飯田橋交差点に着くと右側が揚場になる。筋違いに毘沙門前に出るのは揚場町から軽子坂をあがって途中で左に折れればよいので、若い頃この道を毎日のように歩いた。

それから 11
 散歩のとき彼の足は多く江戸川の方角に向いた。桜の散る時分には、夕暮の風に吹かれて、四つの橋を此方から向うへ渡り、向うから又此方へ渡り返して、長い堤を縫う様に歩いた。

 ある時彼は大曲の所で、電車を下る平岡の影を半町程手前から認めた。彼は慥にそうに違ないと思った。そうして、すぐ揚場の方へ引き返した。

それから 16
 帰りには、暑さが余り酷かったので、電車で飯田橋へ回って、それから揚場を筋違に毘沙門前へ出た。

 

 

神田川(当時は江戸川)の西江戸川橋(当時は前田橋)

 

揚場(あげば)

 

大曲 神田川はここで流路を西行きから南行きに変える

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