©2004 関 健一

横寺町の尾崎紅葉旧居

 明治24年(1891)10月19日、数え19才の鏡花は牛込区横寺町の尾崎紅葉宅を初めて訪ね、小説家への志を述べると、翌日から尾崎家の玄関番として一階に起居することを許された。前年金沢から上京して非常な貧乏暮らしの中で文学者を目指していた。明治28年(1895)2月までの3年半鏡花は尾崎家で作家修業することになる。
 紅葉が横寺町の鳥居家の母屋を借り「十千万堂 とちまんどう」と称したのはこの年の2月、多数の文士がここに出入りをした。有名な”金色夜叉”もここで執筆したのである。

 横寺町は我が家から2,3分、その名の通りお寺の多いところです。昔懐かしい舗装していない路地を入ると今も鳥居家が住まいする紅葉旧居後の看板に出会います。板塀の向こうの庭は紅葉も鏡花も眺めた庭と大きく変わっていないらしい。白い梅が満開でした。

 

 

 

神楽坂の泉鏡花旧居跡

旧東京物理学校の校舎を復元

 明治36年(1903)3月 数え31才になった鏡花は友人吉田賢龍が工面してくれた金で神楽坂の芸妓 桃太郎(本名伊藤すゞ)を請け出し、現在の神楽坂2丁目2番地に新居を構えた。同年4月それを師紅葉に知られ叱責され、すゞは泉家をいったんはでるが同年10月紅葉没後戻って鏡花夫人となった。
 この経緯が”湯島詣””婦系図”として後年小説となった。ここ神楽坂には転地のため逗子に越す明治39年7月まで住むことになる。


 旧居跡にあったはずの新宿区指定史跡の看板は見つからず、近くの八百屋さんに伺うと今はなにも無いとのことでした。旧居跡は神楽坂の一つ南の裏通 りからホテルアグネスに向かう登り坂のあたりだと思いますががこの辺はすっかり変わってしまいました。
 坂をあがってしばらく行くと明治39年に建った東京物理学校の2階建て木造校舎を復元した 近代科学資料館の洋館があります。
 先ほどの紅葉旧居から歩いて10分ほど、鏡花がこんな近くで隠れ住もうとしたとはとうてい思えないので、紅葉の強い反対は予想外だったのでしょうか。

 

神楽坂見番

若可菜旅館の黒塀

神楽坂伊勢藤

 

  後に鏡花夫人になる伊藤すゞは神楽坂の芸妓であった。明治32年(1899)紅葉の主催する硯友社の新年宴会で鏡花と初めて出会い、4年後に結婚することになる。鏡花が数え10才で死に別 れた亡母とくしくもおなじ名前であった。

 黒塀の料亭は減ったとはいえまだ神楽坂には何軒も残っているし、芸者さんも夜6時頃とか9時頃歩くと出会うことがあります。見番や他の家からも三味線の稽古の音が聞こえてくる事もあり楽しいです。石畳の路地裏には明治を思わせる風情があり、居酒屋の伊勢藤は外観ばかりでなく内部も懐かしい空間です。

 

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